進学塾ism

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講師ブログ

こんにちは、高校数学担当の森蔭です。

 

地震・台風・酷暑のみならず災害をもたらす大雨や長雨。ここ数年の気象状況の急変には、身体も心もついてゆくことができません。
2 学期が始業してから早やひと月近くが経ちますが、環境の変化に順応できず不安を抱えている人も多いのではないでしょうか?

しかし、社会は立ち止まることに不寛容で、個人の心よりも全体のスケジュール進行が優先されます。本当はもっと深く理解したかったはずのことを放置し、先へと進むことへの罪悪感と不安感。未完成な自分自身への苛立ちや焦り。そんな心の不調を感じている人もいるはずです。

 

現在、ISM の個別指導会や河合塾マナビスでは、多くの ISM 卒業生がスタッフとして活躍してくれています。先日、その中の一人で三重大学教育学部に在籍しているR くんから、彼が大学で教職実践の指導を受けている教授が私の旧知であることを教えてもらいました。三重大教授の知り合いに覚えがなかったため最初は半信半疑でしたが、その方の名前をきいて思い出が溢れてきました。

私がその教授と出会ったのは今から 25 年以上前です。当時私が勤務していた塾の夏期講習の案内を四日市高校に届けに行った際にご対応いただいたのがその教授でした。その頃教授は四日市高校の数学の先生で、同じ教科を教える立場で数学の教授法から高校教育のあり方にいたるまでたくさんのお話をさせていただいたことを覚えています。

 

それから6 年ほどして私が当時の勤務先を退職することになり、そのご挨拶に伺った際に教授からいただいた言葉を今も忘れません。教授はそのとき私に次のように仰いました。
「進学校には進学校の役割があります。今の四日市高校ではそれを果たせていません。私は必ず四日市高校を一流の進学校にして見せます。見ていてください。 」

その後、その言葉通りに四日市高校はどんどん変化し一流の進学校へと進化していきました。そのことについては語るまでもないと思います。

私はその言葉をいただいた後の帰り道、「では、自分には一体何ができるのだろうか?」と思いました。その時に思い返したのは、私が塾講師という職業を選択したときの信念です。

 

私の 20 代前半はドブの底を這うような日々でした。行けども続く真っ暗な闇。そこからどうして抜け出せば良いのかわからない自分。

そんなとき、一人の医師の言葉と出会いました。
その医師は生きることをあきらめようとする患者に対して、いつも次のように言葉をかけます。
「医者が治せる患者は少ない。それでも私があきらめていないのに、どうしてあなたが先にあきらめてしまうのですか?」

この言葉を聞いて、そのときの私は心臓を強く握られたような感覚をおぼえました。
自分は自分のことしか見ていない。顔を上げて周りを見回すと多くの人たちが自分を見守ってくれている。そして、その中の誰一人として私の回復をあきらめてなどいない。あきらめようとしているのは自分だけだと。

そのことに気づかされたとき、暗闇から一筋の光がさすように感じました。その医師こそ日本の精神医学を根底から変革した稀代の臨床家、中井久夫先生です。その後、私は先生の著書を何冊か拝読し、医療人のみならず人として大切な「希望を処方する」という考えを教わりました。

中井先生は、患者に「あなたは絶対に治る」と安請け合いはしません。ただ、 「あなたは大いに変りうる」ことを一語一語丁寧に選び、伝えていきます。患者が希望を感じられるように。

 

私には成績を上げる力も大学に合格させる力もありません。結果はすべて生徒たちの努力の賜物です。私にできることは、辛く苦しい道のりの中でも彼らが明日を迎えられるように、希望を与えることだけです。
そのためには、自分の目で彼らをしっかりと見つめ、自分自身こそが日々努力をし続けなければなりません。私はその信念のもとで仕事を続けてきました。

先日 R くんのお話を聞かされて、私は原点に立ち戻されたような気持ちがしています。あれから 25 年経ちますが、私はまだまだ未完成です。まだまだ努力が必要です。これから何度立ち止まろうとも歩みを止めるわけにはいきません。

 

京都東山に浄土宗の総本山である知恩院という寺院があります。
その御影堂の大屋根の中央に 4 枚の瓦が置かれています。いわゆる『未完の瓦』です。

「満つれば欠くるが世の習い」という故事にちなんで、わざと瓦を置くことで、まだ知恩院は発展途上であることを示すものです。不完全だからこそより頑張ることも他者と補うこともできるとおしえるものです。

私はこれにはつづきがあるように思います。この4 枚の瓦は後世の私たちに託されたバトンではないかと。完成はそれぞれの時代に生きるそれぞれの人たちの力で成し遂げてください。
何が完成なのか、それも時代や人によって違いますから。ここからずっと見守っていますよ。いつもあの屋根を見上げる度に、そんな言葉を投げかけられているような気がしてなりません。

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