講師ブログ
2025年9月16日
邂逅(かいこう)
こんにちは、高校数学担当の森蔭です。
猛烈な暑さや尋常ならぬ大雨。異常気象もここまでくると、まるで日常になりつつあります。2学期が始業してから早やひと月近くが経ちますが、日々を何とかやり過ごすだけで精一杯の人も多いのではないでしょうか?その上、間もなく試験シーズンが到来します。
特に高校3年生にとっては、毎週末に模擬試験が行われる「模試ロード」が始まります。否応なく突きつけられる現実を目の前に、無力感を抱いて立ちつくしてしまうこともあるや知れません。
先日、亡くなった父の初盆のため実家を訪れました。その折に母から父の遺品の中にあった一通の手紙を手渡されました。それはどうやら私が母に宛てて書いたもののようで、たった一言「おかあさん。ぼくはきょうからいえでをします。ともひこ」とあり、その裏面には「昭和52年7月28日 智彦 小学一年の夏休み」と父の字で書かれていました。
私には家出をした記憶はなく、なぜ母に宛てたはずの手紙を父が50年近くもの間大切に持っていたのかも今となっては確かめる術はありません。手紙を目の前にしたときには強い疑念を抱いたのですが、次の瞬間にまるでタイムスリップをしたかのように50年前のことが私の脳裏に蘇りました。
私は小学校に入学して間もない頃に小さな騒ぎを起こしました。ある日の下校時に同級生がガキ大将になじられている様子を目撃し、それをやめさせようとして反撃に遭い、為す術なく大勢の前で泣きベソをかいてしまいました。それが校門前での出来事だったため、その場は一時騒然となりました。
次の日に学校に行くと、私はガキ大将に刃向かった生意気な新入生扱いで、周りから白い目で見られる始末。意気消沈し教室の自分の席に座ってうつむいていると、後ろの席の少年が「今日の放課後に自分の家に遊びに来ないか。」と誘ってきました。私は暗い気分を晴らすためにその誘いに乗って、その日の放課後に自転車で彼の家を訪問しました。
彼の自宅はまるでドラマに出てくるような家で、玄関のチャイムを鳴らすと品のある素敵なお母さんが私を出迎えてくれました。彼の自室に案内されましたが、部屋の中も整然としていて机の上の本棚にはたくさんの書物が並んでいました。それ以来彼とは仲良くなり、お家には何度も訪れ、たわいない話をしたり、本を読ませてもらったり、時にはおやつをご馳走になったりしました。
そんなある日、何度目かの訪問の帰り道に、彼のお母さんが私の自転車を後ろから追いかけてきました。お母さんは息を切らせながら、彼が入学当時の校門前での出来事を一部始終見ていたこと、友達になりたいからと私を自宅に招待したがったこと、私と話すようになって引っ込み思案だった彼が明るく元気になったことを伝えてくれました。
そして最後に、彼が一学期でこの町を離れ遠くの町に引っ越しをすると伝えられました。そして彼はそのことが悲しすぎて自分から私に話せないし、何も言わずにひっそりと別れたいと思っているとも言われました。その後、私は彼の望み通りにお母さんから聞いたことを一切口にせず、普段通りに接し続けました。そして一学期の終業式の日も、いつも通りに別れました。
夏休みに入って間もなくして「本当に彼はいなくなってしまったのだろうか?」と思い、私は一人で彼の自宅を訪れました。家に着いて玄関のチャイムを鳴らしましたが反応はありませんでした。何度も何度もチャイムを鳴らしましたが同じことでした。その瞬間、押さえてきた感情が溢れ出て誰もいない家の前で一人号泣したことを覚えています。そして次の日から夏休み中ずっと、私は朝から晩まで彼と一緒に遊んだ場所や、彼の行きそうな場所を自転車に乗って、いるはずのない彼を探し回る毎日でした。
おそらく手紙にあった「いえで」とは「家を空ける」という意味ではないかと思います。そして、もしかすると彼のお母さんは私と彼のこと、彼が引っ越しをすること、ともすれば引っ越し先をも亡くなった私の父に伝えていたのかもしれません。
私にとってこの50年前の出来事が私の原点であったように思われてなりません。その時に私のとった一連の行動も、いなくなってしまったかけがえのない友人も、それを見守ってくれた周りの大人たちも。そのすべてが愛に満たされ、そのすべてが私という人間をつくってくれたのだと感じています。亡き父はそのことを50年越しに私に伝えたかったに違いありません。
昨日よりも今日、今日よりも明日と前に前に進もうとするばかりが現代人の習性です。新しく素晴らしいものは未来にこそ存在すると信じて疑わない。
しかし、本当にそうでしょうか。大切なものは過去にも確かにあったはずなのに、前ばかりを見つめ過ぎてそれに無自覚になってしまっているだけなのかもしれません。本当に大切なものとの関係を真に深めたいのであれば、私たちは「戻る」準備をしておかなくてはなりません。過去は目に見えず、今ここには「存在」してはいませんが、確かに「実存」しているものなのです。そのことに気づいたとき、人は本当の意味で前を向けるのかもしれません。
私の敬愛する谷川俊太郎の詩集『二十億光年の孤独』に収められた「かなしみ」という詩を贈ります。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった