講師ブログ
2014年1月20日
猫は後悔するのか?
こんにちは、高校数学担当の森蔭です。
一昨日と昨日の2日間をかけて大学入試センター試験が行われました。今のところ生物が昨年より若干難化した以外は、ほぼ昨年並みというのが大方の予想です。しかしこれは全体の予想あって、一人ひとりの個人についてみれば、うまく乗り切ることができた人もいれば、そうでなかった人もいます。私もセンター試験(当時は共通一次でした)を失敗した口なので、しばらくはそれまでの自分のあり方を酷く悔やみました。今、あの時の私と同じ思いの人もいるのではないでしょうか。そういう人は、存分に後悔してください。中途半端に悔やむのではなく、トコトンまで後悔し尽くしてください。そうすればそれは必ず次への原動力になるはずです。
先日、高校1年生の授業で「猫は後悔するのか?」ということが話題になりました。猫が鳥に襲いかかり寸でのところで逃げられ、その時猫は悔しい思いをもつでしょうか。私の考えでは、「猫は後悔しない」いや、「できない」のです。ではそれはなぜでしょうか。話題の中心は「なぜ、猫は後悔できないのだろうか?」という点にありました。
そもそも「後悔」とは、「ああすればよかった」とか、「あんなことしなければよかった」のように「事実に反する思い」をいうものです。「事実に反する思い」という場合の事実とは、現実に起こった事実をいうのですが、事実には現実に起こった事実と、現実には起こらなかったけれど起こりえた事実があります。ここで起こりえた事実とは思考可能な事実を全て含みます(例えば、私がACミランで本田選手と一緒にプレーするなどもOKです)。このような事実の総体を「論理空間」といい、われわれ人間はこの「論理空間」の中で生きているのです。
しかし、「論理空間」が開かれるためにはひとつ大きな条件があります。それは「分節化された言語をもつこと」です。「分節化された」とは、例えば赤いりんごが木から落ちたという事実を、〈赤い〉という性質と〈一つのあのりんご〉という対象と〈木から落ちた〉という動作に分けることができることをいいます。実はこれができるからこそ、〈木から落ちた〉という動作を変更して、赤いりんごが〈空に向かって昇っていく〉というような反事実的な別の可能性を思考することができるのです。
ところが、猫にはこのような「分節化された言語」はなく、よって「論理空間」を開くことができません。すなわち、「現実には起こりえない様々な可能性を思考すること」はできず、かくして「猫は後悔できない」のです。
以上が「猫は後悔できない」ことの論理学的な説明なのですが、大切なことはその証明の論理性ではありません。「猫は後悔できない」という真の命題から、私たちは「人間は後悔ができるのだ」という新たな真の命題を引き出したことにあるのです。後悔とは悩み苦しんで諦めることではありません。後悔とは「別の可能性を思考すること」です。猫(実は人間以外の動物)は、現実に起こった事実のみを受け入れるしかない生き物です。しかし、私たち人間は、あらゆる可能性を思考し自らの未来を自らの手で切り開くことができるのです。だからこそ、徹底的に後悔してください。そして次の可能性を模索してください。もしそのとき私の力が必要なのであれば、微力ながら協力を厭いません。
今の後悔は必ず次への原動力になります。なぜなら、あなたたちはここISMで人間力を養ったのですから。