講師ブログ
2015年12月31日
イデア
こんにちは,高校数学担当の森蔭です。
今日で2015年が終わります。あと16日後には大学入試センター試験が行われます。正に瀬戸際です。今日もISMの自習室にはたくさんの高校3年生が来ていますが,彼らの真剣なまなざしを見るにつけ,「今,彼らの目には一体何が映っているのだろうか」という思いに駆られます。
ところで,皆さんは「線」を見たことがありますか?そもそも「線」とは何か分かりますか?こう言ってしまうと身も蓋もないのですが,ユークリッド幾何学では「線」の意味は厳密には定義されていません(無定義述語といいます)。しかし,一般に数学では「線」とは「太さ(幅)が0の図形」をいいます。
ということは,私たちが普通に紙の上に描いた「線だと思っている図形」は,視覚的に見ることができている以上、太さ(幅)があり,数学的な意味では「線」ではないものということになります。このことは,とりもなおさず私たちは「線」を見てきたのではなく,今後も「線」を見ることができないということを意味するのです。もちろん,同じことが「点」にも「面」にも「三角形」にも「犬や猫」にもいえることになります。つまり私たちに今見えている(と思っている)ものは,私たちがそう思っているだけで,本当のそのものとは違うものなのです。
では、本当の意味でのそのもの自身は一体どこに存在するのでしょうか?この疑問に紀元前の哲学者プラトンは,「それは現実の世界ではない観念の世界にあるのだ」という答えを与え,観念の世界に存在する真のそのもの自身のことを「イデア」と名づけました。そして,この世の中から現実という現実がすべてなくなったとしても,イデアだけは残り続ける。したがって,イデアこそが普遍的で本質的な存在なのだと主張しました。
プラトンの「イデア論」は少し過激すぎて受け入れがたい部分があります。弟子のアリストテレスもそう感じたようで,「観念の世界はどこか別の世界にあるのではなく,可能態として現実の世界に内在している」と「イデア論」を修正しています。私の考えもどちらかといえば,アリストテレス派です。
「未来は変えられる」と言う人がいますが,私はそうは思いません。変えられるのは現実の方です。現実に対する捉え方を変えることで,その連続の彼方に未来が映ってくる可能性があるのです。私たちの見ている現実は「ひとつのかたち」にすぎません。それをそのまま受け入れるかどうかは,あなたたち次第です。本当の自分を見てみたいのなら,可能性を信じるしかありません。
私はあなたたちと一緒に,今まで一度も見たことのない「線」を見てみたいと思います。