講師ブログ
2021年2月18日
可能無限の立場から
こんにちは、高校数学担当の森蔭です。
来週の2月25日(水)から国公立大学の2次試験前期日程が行われます。いよいよ大学受験も佳境を迎えます。私はこの1年間、様々な状況に見舞われ、色々な心境に駆られた大学受験生の姿を見てきました。ここまでに進学先を決めた人、受験を終えて結果を待つ人、これから受験が続く人、どのような立場であれ自らと向き合うことをあきらめなかったすべての人たちに心からの敬意を送りたいと思います。
昨年末に画家の安野光雅さんが他界されました。私が初めて氏の作品と出会ったのは小学校時代の図書室で、「はじめてであう すうがくの絵本」という本でした。この絵本と出会って絵本を見るのではなく読むという感覚を知りました。氏は画家でありながら科学とくに数学に造詣が深く、初期の作品には数学センスにあふれる前衛的なものが多く見られます。その意味で氏はオランダの画家M.C.エッシャーと並び称されることもあります。エッシャーといえば、「滝」や「上昇と下降」という作品に見られるように『有限の中に存在する無限』を表現することで有名ですが、私はこれらの作品を見ていると、感動よりもむしろ閉塞感を覚えてしまいます。自給自足でいつまでも流れ続ける水、昇ったつもりが降りていき果てしなく続く階段という発想が、限られたキャンバスの中に無限の営みを表現しようとしているというよりは、そのキャンバスという枠組みから逃れたいが逃れられない苦しみを表現しているように見えてしかたがありません。
人生も同じなのかもしれません。限られた時間の中で何かを表現するために、結果を残すために人は無限の営みを繰り返します。もしかするとエッシャーはその苦しみを作品に込めたのかもしれません。
私は大学時代の恩師に次のような言葉をいただいたことがあります。「森蔭君、とかく人は無限のもつ神秘に心を奪われそうになるものです。でも、有限だからこそのはかなさや美しさ、そしてその意味に目をやることを決して忘れないでください。」この1年間、大学受験生と接していて彼らの姿がエッシャーの絵の中に投影されて見えることが何度もありました。その時いつも私の頭の中にこの言葉がこだましてきました。
数学の教科書では「線分は無限に存在する点の集まり」とされていますが、私はそのようには考えません。あくまでも線分はそれ自体であり、分けることなどできないと考えています。大学受験もこれと同じです。この1年間という時間は無限の営みの集合体ではありません。すなわち閉じ込められた無限ではないのです。どこかの1点をとって評価できるものではないのです。いつかは終わるこの時間の中で、必死に咲こうともがいた軌跡がひとつのものとして意味をもつのです。
大学受験生のみなさん、安心してください。みなさんそれぞれの作品はもうほとんど完成しています。くっきりとした太い線で描かれています。最後の1点など存在しません。そして春にはまた新しい作品に取りかかりましょう。あなたたちの作品はとても美しく私に希望と感動を与えてくれました。本当にありがとう。
はなむけに、私の大好きなフットボールチーム、リバプールFCの監督ユルゲン・クロップの言葉を贈ります。
「人生を終える最期の瞬間に『あなたは何を勝ち取ったのですか?』と問われるとしたら、とても奇妙だ。私なら『自分がいる場所をより良くするために日々努力してきたか?』と問われたい。人生は結果がすべてではない。」