進学塾ism

お知らせ/コラム

講師ブログ

こんにちは,高校数学担当の森蔭です。

今年度のISM生の国公立大学前期日程の受験は、3月10日の京都大学の合格発表をもって終了します。

しかし、その後も国公立大学中期・後期日程、私立大学の後期日程、各大学の補欠合格者の発表が続々と行われます。ISM生の大学入試はまだまだ終わりを迎えていません。

ISMには、私たち講師の常駐する事務所の前に子どもたちが自由に使えるカンファタブルスペースがあります。そこでは食事を摂ったり友達と談笑したりする人が多いのですが、スペース奥に設けられている自習スペースを好んで利用する人たちもいます。自習室の方が静かで、より集中して勉強できるのでは?と思うのですが、彼らは毎日変わらずその場所へと向かうのです。受験生になりたての頃も、真夏の暑い日も、毎週末模擬試験に追われた秋も、共通テストの直前も、国公立大学前期日程の前日も、そしてそれを終えて結果を待つ今も、ずっと変わることなく。まるで修行をするかのように。

先日、数年ぶりに映画館という場所を訪れました。このご時世、映画はサブスクリプションを利用すれば手軽に安価で鑑賞できるのですが、私はどうしても今、その映画を映画館で観たかったのです。訪れた映画館は自宅に程近い小さな映画館で、客もまばらで静寂に包まれた場所でした。映画はトイレの清掃員をする男が、近所の老婆が掃き掃除をする物音で目を覚ます早朝のシーンから静かに始まります。その後も主人公の一日をただ淡々と幾日も追い続けるだけのもので、その日々は毎日同じことの繰り返しです。

あまりの起伏のなさにフィクションであるにもかかわらず、ドキュメンタリーを観ているかのような錯覚にすら陥ります。同じことを繰り返しているだけのように見える毎日の中で、主人公は必ず昼休みに公園で昼食を摂りながら木々の間からこぼれる「木漏れ日」をカメラで記録していくのです。そのシーンを何度か観ているうちに、何とも言えぬ感情が込み上げてくるのを感じました。それは覚醒なのか、後悔なのか、感謝なのか、あるいは諦観なのか、説明のしようのない心の奥を押されるような感覚でした。そして、映画のラストシーンで、いつもと何も変わりなく仕事に向かう車の中、主人公がただ号泣して幕が下ろされます。その涙の意味すらわかりません。

この一年間、学校が終わりいつもと同じ時間にISMに来て、いつもと同じ席に座り、いつもと同じ時刻まで勉強をしていつもと同じように帰宅する。そんな彼らにとってカンファタブルスペースから聞こえてくる談笑や食事のにおいが、同じように見える毎日に変化を教えてくれる木漏れ日だったのかもしれません。一日として同じ日はない。昨日よりも今日、今日よりも明日、ほんの少しだけ変わっていたい。そんな彼らの思いが愛おしくて、映画のエンドロールが終わっても涙が止りませんでした。

今も、そしてこれからも、彼らにはいろいろな結果が突きつけられます。時にはその結果は自らの思いと裏腹なものであるかもしれません。そんなとき「あきらめる」のではなく、「諦めて」ほしいと思います。「諦める」とは断念することではなく、物事の本質を見極めることだからです。私は、諦観こそがゆっくりと静かに背中を押してくれる力になるものと信じています。

最後に私の大好きな作家、又吉直樹さんの言葉を道半ばの皆さんに贈ります。

『生きている限り、バッドエンドはない。僕たちは途中だ。』

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