進学塾ism

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講師ブログ

 こんにちは、高校数学担当の森蔭です。
 長かった残暑が和らぎ、朝夕は肌寒く感じられるようになりました。ようやく秋の到来です。いつもなら耳を澄ませば聞こえてくるはずの秋の虫の声が、今年はあまり聞こえないのは私の歳のせいでしょうか。それとも「いつものように、いつもの場所で」秋には虫の声が聞こえるということ自体が私の思い込みにすぎないのでしょうか。
 先日、小学5年生になる娘に突然、「お父さん、どうして1+1=2なの?」と質問されました。そのとき私はなかなかの高尚な質問に、小学5年生にでもわかるような説明の方法を持ち合わせておらず(そういう意味では、最低の数学教師です)、「う~ん。とにかく今は、そうなるものと思っておいて。」という最低の回答をしてしまいました。娘は「ふ~ん。」という最低の反応をみせてその場を立ち去っていきました。本当に最低の父親です。
 とにもかくにも、当たり前と思われていることを当たり前と片付けず、そこに疑問を抱いた娘の好奇心に敬意を表するとともに、この場をお借りして最低の父親の名誉を挽回させていただきたいと思います。「お父さんはまぁまぁな数学教師ですよ」とこのブログをご覧になった心ある方から我が娘の耳に入ることがあれば幸いです。
 そもそも「1+1=2」とは、一体何を意味するものなのでしょうか?このことを19世紀末期以降の数学の世界では、「1つのものからなる集合を別の1つのものからなる集合と結合すれば、できあがった集合には2つのものが含まれる」と理解してきました。しかし、これをきちんと理解する(証明する)ためには、「自然数とは何か」を定義し(ペアノの公理)、「加算」を定義し、「等しいとは何か」を定義する必要があります。これらの定義に基づけば「1+1=2」は、たちどころに理解(証明)されます。つまり、「1+1=2」であることの理解(証明)の根本には、「これらの前提(数学では「公理系」という)が無矛盾(疑うべきではない)である」という約束が存在するのです。
 しかし、これらの前提は本当に無矛盾なものなのでしょうか?このことは、先の理解(証明)をした当の数学者たち自身も抱いていた疑問でした。そしてこれは20世紀に入り、論理学者ゲーデルによって「数学が無矛盾であるかぎり、数学は己の無矛盾性を自分では証明できない」(ゲーデルの不完全性定理)というかたちで証明されました。つまり、いつかそのうち誰かが「1+1=3」を証明する可能性があるということなのです。私が娘に言った「今は、そうなるものと思っておいて」とは、そういう意味です。端的に言えば、「1+1=2であることは、わかっている。ただし、本当にわかっているかどうかはわからない。」ということです。
 「数学は絶対的に正しい完全な理論である」という認識は間違いです。それは勉強の仕方、ひいては人の生き方にも言えることです。「絶対的に正しい」ものなどありません。だからといって、「じゃぁ、どうすればいいの?何を信じればいいの?」と迷う必要も、悲観的になる必要もありません。とりあえずやってみて(信じてみて)、うまくいかなければまた違うようにやってみれば(信じてみれば)いいのです。そもそもこの世に絶対的に正しい全能なる理論が存在してしまえば、人間はただそれに従うだけで、もはや知的な努力も探求も必要がなくなってしまいます。そこには真の意味での「豊かさ」の存在しない生活が待っているだけです。
 私はゲーデルの不完全性定理は、「人間には既成の理論を超えることのできる無限の可能性が常に残されていることを保証するもの」であると認識しています。さぁ、思い込みを捨てて一歩踏み出してみようじゃないですか。何か違う音が聞こえてくるかもしれませんよ。

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