講師ブログ
2016年10月13日
杖
こんにちは,高校数学担当の森蔭です。
早いものでもう10月です。3ヶ月後には大学入試センター試験が行われます。その後は私立大学入試、国公立大学入試が立て続けにやってきます。毎年のことながら,ここからは時の経過が加速していくように感じられます。高3生の皆さん,正念場ですよ。
10月になって,うちの近所の幼稚園か小学校から運動会の練習をする声が聞こえてきます。運動会というと,私は以前から「玉入れ」という競技の勝敗のつけ方に疑問を抱いています。玉入れでは競技が終わると必ず,皆で「ひとーつ,ふたーつ,みいーつ,…」と数え上げるのですが,結局は玉の多いほうが勝ちとなります。白が25で赤が24でも,白が25で赤が15でも,白には同じ勝ち点しか与えられません。それでは,単純に玉の多い少ないを比べればよく,玉の数を数え上げることに意味がなくなると思うのです。
数学(記号論理学)に「対偶」というものがあります。「命題A:PならばQ」に対して「命題:QでないならばPでない」を命題Aの対偶といいます。例えば,「雨が降るならば地面がぬれる」の対偶は,「地面がぬれていないならば雨が降っていない」となります。これは高校1年生の1学期に学習する内容で,命題の真偽(正しいか間違いか)を判断するための道具として用いられます。では,「親が叱らないと子どもは勉強しない」の対偶はどうなるのでしょう。この質問を生徒たちに投げかけると,生徒たちは決まって「子どもが勉強するならば親は叱る?」と答えます。もちろん,おかしいですね。しかし大体の生徒は,どこがおかしいのか分からないのです。先の命題の対偶は「子どもが勉強しているのは親が叱ったからだ」になります。では,なぜ生徒たちは間違えるのか。その答えは簡単です。生徒たちは対偶という「形式」のみにとらわれすぎて,対偶の「核心」をとらえられていないからです。
物事には「型」と「核」があります。はじめて出会うものは,まず型を知ることから始めるのは当然です。しかし一度出会ってからは,その核を知ろうと努めなければいけません。先の玉入れのように,世の中には型に流されている事象がたくさん見受けられます。流されるほうが流れを横切るより楽ですから。
現役生が残り3ヶ月で伸びていくのは,ここから「核」をつかみにかかるからです。それはとてもしんどいことです。しかし,ここで踏ん張れない人は時の流れにのまれていきます。
勇気を出してください。私にできることは,あなたたちの杖となることくらいですが,一緒に歩いていきますから。