講師ブログ
2020年8月18日
沈黙ということば
こんにちは,高校数学担当の森蔭です。
連日の猛暑に体も心も対応しきれない人も多いと思います。各高校では1学期の期末考査が終了し短い夏期休業に入りましたが、いつの間にか8月も終盤にさしかかっています。例年なら夏期休業中の自学の仕上げの時期に入っているはずですが、今年においては仕上げどころかまだまだ始まったばかりで、特に高校3年生にとっては本当に「厳しい夏」となっています。
先日、ISMを卒業し夢の実現のためにもう1年受験生活を送っている先輩と話しましたが、予備校の授業も対面とリモートの融合らしく、思うように受験勉強が進められていない人も多いようです。この苦しい状況は誰にとっても同じです。いろいろな雑音に惑わされることなく、しっかりと足元を固めましょう。現実を忘れるべく他人と交わりたくなる気持ちはわかりますが、こんな時だからこそ黙って自分自身と対話することが大切です。
私の好きな思想家・詩人に吉本隆明という人がいます。氏の思想の出発点となった著作『初期ノート』の中に次のようなことばが綴られています。
あいつもこいつも賑やかな奴はみんな信じられない
どうして思想は期望や憧憬や牧歌をもって
また絶望はみみつちい救済に繋がれて提出されなければならないのか
同じ著作の中には次のようなことばもあります。
僕は常に孤立した少数者を信ずる
彼は期望も救済も信じていない。賑やかな奴は「沈黙」を知らないため信じられない。苦境を受け止めてあがくことが自らを強くし、少しずつ前進できるのだという強烈なメッセージを感じます。
私は今まで壁にぶち当たったとき何度もこのことばたちに助けられました。「できる」というのはついに自分で自分にいうしかないのです。
「沈黙」を負のイメージでとらえる風潮がありますが、決してそんなことはありません。「沈黙」はことばの始まりです。『歎異抄』は親鸞が晩年に自問自答することばを弟子の唯円が書き留めたもので、そこには晩年であっても変化し成長しようとする親鸞の姿が映し出されています。親鸞が晩年においても成長しつづけられたのは、自問し自答する(ことばを発する)間にある「間(沈黙)」によるところだと思います。また旧約聖書の『創世記』では、天地創造の始まりにおいて神が「光あれ」と呼びかける前に長く深い「沈黙」があったとされています。
「沈黙」は断絶を意味するのではなく、ものごとの始まりに力を与えるものなのです。
今こそ真の意味での始まりを前にし、黙って自らに問いかけましょう。その後に発せられる小さな声と小さな変化を私たちは全身で感じ取りたいと思います。
がんばれ。